2010.8.23
先日別の会のT夫妻から、一冊の冊子をいただきました。
若草20周年特別記念号
「アルコール依存症と断酒会」です。
中田陽造先生が書かれたものでした。
若草20周年特別記念号
「アルコール依存症と断酒会」です。
中田陽造先生が書かれたものでした。
例会のあり方について、納得することがたくさん書かれてありました。
例会は、自分のゴミを捨てるところである。飲酒時代に「酒は涙が、ため息が、心のうさの捨て所」と毎夜飲んでいたことを思い出すと、日々たまる心のゴミを日々酒の中へ捨て、生きてきた事が覚る。サケをやめたからと言って、心にゴミもたまらなくなるとは限らない。そのゴミの新しい捨て場が断酒会の例会である。
従って、例会に行かないと、心はゴミまみれとなり、病気(心身症)や再飲酒に陥る。だから、例会には、「必ず」出席するべきで、「出来るだけ」ではない。自分のゴミを捨てる場であるから、全く問題でない筈である。所が、そのようなことを問題にするのは、自分のゴミを捨てに行くのではなく、他人のゴミを拾いに行く姿勢だからと言える。
「人生は苦である。(釈尊」が、何故、苦がくるかというと「求める」からである。欲を出して得ようとするからである。「求めても得られない」のが、この世の常で、得られていないと感じる苦しみだけが得られる。例会で中傷やアテコスリの様な正真正銘のゴミを拾わないだけでなく、先輩の立派な体験談や医師の講話のようなものも求めない事が肝要である。どの様なよい話でも、繰り返し聞くと感動しなくなるので、ゴミ拾い屋の人は、「いつ行っても、同じ顔ぶれで、同じことばかり行っている」だから、「一日ぐらいさぼってもよいだろう。」「一日さぼっても、サケ飲まなかったら、二日さぼっても大丈夫や」「二日も三日も一緒や」から、あるいは、「この例会は良いが、この例会はつまらない。」とか「誰それが私を当てこすったから」「もう例会に行かない」「断酒会も止めた」と誤った結論を下し、結局、サケ。断酒会に行くのは、自分のゴミを捨てるためであり、如何なるものも求めてはいけない。だから、コツは例会に必ず出席することであり、「良い話を聞こう」とか「勉強に行こう」とか言うことではない。勉強する心得では、学校のように、「卒業」してしまう。
例会出席で時間を潰すのがコツ。例会へ良い話を求めていくのは邪道である。心の誓い(旧)にも、「例会には必ず出席しよう」と書いてあるが、「良い話を聞きに行こうと書いていない。同じ顔ぶれで集める例会である。また、良い話も繰り返し聞くと、感動しなくなる。「今夜もあの人とこの人と。あの話かこの話か」「マンネリや」「今晩一回例会さぼってもエエやろう。」「一晩さぼってもサケ飲まなかったから、今夜もまた、さぼっても大丈夫やろう」「一晩も二晩も一緒や」「もう断酒会は卒業や」とエスカレートしていって、再飲酒。(略)断酒会もマンネリでよいわけである。何も求めず、マンネリに「2時間だけ席を暖めに行く(時間を捨てる)」心得が肝要で、これなら、永久に卒業はあり得ない訳だから、当然、再飲酒も起こらない。
断酒会の先輩は新人が例会へ参加しやすいように、いつも暖かく迎え入れるだけでよい。新人のオカシナ言動を注意するのでなく、むしろ、そこに自分の過去を認め反省する心得が大事である。すると、新人も断酒会へ参加する中で、自分と同様、必ず回復する事を確信できる。これに反し、薬の使いすぎによる薬害が病気を起こすように、説教する先輩の口害が新人を断酒会から離脱させ、破壊させる。
断酒会としての大事はすべての人々が例会出席して心の安らぎを得られるように、「如何なる意見も 言わず、体験談に始まり、体験談に終わる」原則を尊守する事である。意見には必ず異見があり、ケンカの種を蒔く。
深く反省するとともに、例会について、自分自身納得したことでした。
「つぶやき」では、ありませんが、例会のあり方について学んだことを載せてみました。
W・K